わずか1年半あまりの滞在にしては不自然に詳しい外国人やなーとネットを検索してみたら、書評とかあちこちで書かれてた。俺も「エリートインド人の手記を訳したという設定で書かれた、日本人による創作」やろなーと思う。でも、面白かったからよし。
目に留まったとこをずらずら〜っと引用。
学業成績が優秀で社会への適応がうまくいかない者はとくに、学校がもつ価値観から抜け出すことが難しい。社会に出てからも教師から絶えず触発され、課題を与えられ、それに応えて評価を受けるシステムを望み、そのことで自己恢復を図ろうとする。
ところで日本のレストランでは、インドのようにメニューにない料理を注文したり、味つけを指示したりすることができない。もしできたとすれば、ひじょうに高いものにつく。受け身受け身。耳痛い。あーもう言わんでくれ。
メニュー文化は、基本において規格品の量産という薄利多売主義と、シェアの全国拡大を前提とする大規模な宣伝戦略とによって成り立っているのである。
マスメディアをつうじて商品の品質や特性を比較させ欲望を煽るこのシステムは、消費の大幅な拡大を実現させながら同時に、プロトタイプなものへの人びとの依存心を強めている。何一つ自分で作ろうとしない人びとが増え、カタログ誌や広告誌が増えていくばかりだという。人生の生き甲斐すら専門家によって「プロデュース」されている。
一九九一年の経済改革以来、私はインドの発展の一翼を担う事を望んできた。しかし外資の導入による繁栄は、じつは見せかけの繁栄にすぎないのではないか。われわれが喫緊と見なしている「近代(モダン)」という概念は、じつは欧米の合理主義がアジアにおしつけたエゴイズムにすぎないのではないか。
外資は国内産業を活性化させず、既存企業間での競争を導かず、止揚を行わないまま国内の弱小企業をつぶし、市場を独占し、国内経済を席巻して一握りの企業だけに利益の一部を還元し、あとのすべてを投資国へ持ち去るというケースが多い。西洋の物質主義に対して東洋の精神主義というステレオタイプな考え方は嫌いじゃない。ステレオタイプがステレオタイプたり得るのは、そんだけ共感されやすい理由があるんだろし。
(中略)
日本ではすでに、外資の影響を受けない産業においても、この種の原理が働きはじめている。圧倒的な資本力をもつ大企業が、地方に進出して市場を攪乱し、零細企業をつぎつぎと倒産させ、消費の概念、消費の構造式までも変えているのである。
ステレオタイプというだけで否定する姿勢も、これまたステレオタイプだろし、むしろそっちのほうに抵抗を感じるわ。ま、言い出したらキリないな。ループしそう。
設定(?)では、インドのエリートビジネスマンが滞在したのは、1992年からの20ヶ月。バブル終焉期、おらー大学4年から就職1年目の頃か。ついこないだやと思ってたけど、すっかり出世してる友人らも多かろうな。俺ホンマなにをやってるんやら……。
